マダム花井のサンプル縫製で大目玉を食らったことが私の野心に火をつけた

Aラインスカート

洋裁を自宅で学べる「ずぼらでパリコレ」オンライン講座とは

洋裁を自宅で学べる「ずぼらでパリコレ」オンライン講座とは

こんにちは。「ずぼらでパリコレ」洋裁が自宅で学べる一年講座の小川タカコです。

今回は私がなぜ、フリーランスになったのかについて、書きます。
2016年に掲載していたサイトから外れて、行方不明になっていた記事の再投稿です。

これは3回目になる過去のお話しですが、鬱っぽいときに鬱のことを書くと症状が厳しくなるので、過去のことは触れないでここからのスタートで許してください。

サンプル専門を選んだのは、フリーランスでありながらも、お金が充分に稼げるからだった

両親がラーメン屋の商売を辞めて、父は営業的なことをその時その時で渡り歩くようになり、母は工場のパートなどしていました。

不仲は酷くなる一方だったが、どんなに大きな喧嘩になっても、離婚に至るようなこともない不安定な夫婦形態でありました。

憎しみ合いながらも、共依存しているのだろうと感じられ、結婚に期待する気持ちは私の中で全否定でした。

そんな女の力のなさを見るにつけ、性格的なことややってきたことは別として、女として生きることが哀れだとしか思えなかったからです。

 

私は女としての幸せが存在するのは信じていますが、自分にも女の幸せが現実にくると考えるのは無理があり、淡い期待ならば逆に否定することで自分が許されるような気持ちでした。

結婚生活も家族との愛情も、実はそもそもの期待値が0というよりも、マイナスでしかないと感じ、誰の事も信じていなかったし、自分の力だけしか頼るものがないと思い込んでいたからです。

そんな私にとって、「サンプル縫製」という職業は、心底からドキドキするモノに満ち溢れていると感じました。

1983年の当時に、在宅でそれなりに稼げる方法なんて、聞いたことがなかったし、それを自分の力だけで興せるのであれば、どんな苦労も出来るような気がしたからです。

アパレル企業に半年間勤め、企画室の助手のような仕事をしていました。

私の仕事は、お年の召されたサンプル屋のおばちゃんたちに職出し(仕事を送り出すこと)を担当していました。

分かり易いように工程の順番を表にするとか、縫い代を間違えないように付けて、注意書きをするなど、サンプルを縫う人が困らないようにするための仕事をしていました。

サンプル屋の為に用意する情報が貴重なわけ

アパレルメーカーにとって、新規のデザインをどうするのか、営業や生産など企画室と相談し、このデザインでと決まると、デザイナーがデザイン画を描きます。

会社の規模で変わりますが、パタンナーがいて、デザイナーの意図するところをくみ取って、型紙に起こします。
ここが、いわゆる「人間だもの…」的な要素やら、お察し能力などが問われ、非常に微妙な匙加減も要する、実にドラマだったりするのですが。

そこはさておいて。

企画室にとって、新規デザインはサンプルを作ることからスタートします。

パタンナーさんやデザイナーさんが起こした型紙を、サンプルを縫う人、生地と接着芯などの付属、そして型紙をつけて発送します。

サンプル屋の苦しいところは、見本が存在しないということです。
1着でも見本があれば、逆算して工程を考えることもできるのですが、サンプル専門屋はそのデザインの型紙を最初に縫う人なので、当然ですがサンプルも見本もありません。

型紙から作らせようとするデザインを組み立て、それを縫うことで形にするのがサンプル屋の仕事です。

 

簡単そうに思えるかもしれないですが、見本もない手探りの状態で、凝ったデザインを縫うのは、非常に難解で混乱しやすく、1着分の生地しかないので、失敗するわけにもいかず、高度な技術力と忍耐が試されます。

試練の連続がサンプル屋の使命のようなものです。

サンプル屋の口癖は「この型紙じゃ、形にすること何てできない」というものでした。

電話しかない当時ですので、単に言葉だけで状況を伝え合うしか方法がないため、実に苦々しいやり取りになってしまいます。

デザイナーさんもパタンナーんさんも、サンプル屋のおばちゃんたちからの電話は、大嫌いで新人の私へ押し付けられるのは当然の流れでした。

そこで、サンプルを発送する前段階の、縫い代付けの時に注意書きをパタンナーさんがしていた量を、2倍、3倍に増やすことを試してみました。
見本を作るために想像することを楽にしてあげて、工程や縫う順番を分かり易く説明して依頼するようにしたのです。

その時に勤めていたアパレルは、パーティー用のカジュアルドレスを作っていたので、縫う順番の工程が逆になると出来なくなってしまうこともあり、裁断の時から工程を想像しやすいいようにコピー機で焼いたパターンへ、赤や黄色などの色を付けて、目立つように注意書きをたくさん書き入れました。

当然ますます、サンプル担当者は注意書きをした私の専門になっていきます。
今までは「出来ないって言ってんですよ!」と文句ばかりだったサンプル屋さんが、「この注意書きの意味をもっと説明して?」と前向きな発言をしてくれるように変化しました。

縫う人間にとって、工程をどうするのかと、デザインへの注意書きがどれほど大事なのか、つまり縫うことは情報戦であると知った最初でした。

ミシン

 

サンプル屋をやってみたいと思うようになる

サンプル屋さんに情報を提供するうちに、自分でやったらもっとうまくいくのではないかと感じ始めました。

そう考えなおしてみると、、実際に型紙に縫い代付けをするなど、出来上がりまでの内容を知っているだけに、私の希望は確かなものになっていきました。

 

縫製工場の人や、お勤めでサンプルを縫う縫い子さんたちは、もしかしたらメーカーからの本当の工賃を知らないのかもしれないと思ったりもしたものです。

サンプル屋の現在のレートは全く知らないので、あてにはなりませんが。
私が当時請け負っていた工賃は下記のとおりです。

  • スカート1着6,000~7,000円
  • ワンピースで10,000~12,000円
  • ジャケットは15,000~18,000円

サンプルは多くの場合、各色で2~3着作る為、同時進行で1着縫うよりも早く縫うことが可能です。

生地も使う接着芯などはアパレルから送られ、糸が指定であれば糸だってくれるところもありました。

 

つまりm接着芯、その他の付属もすべてそろっている状態で家に届き、裁断するところからスタートして、縫い終わって完成させ返送して業務が終了します。

 

量産で大量に作る前の試作品がサンプルなのだから、すべて揃っていて当たり前に決まっているのですが、家から一歩も出ないで工賃がもらえることに、すごいことだと感じました。

縫い上げる技術と労力、返送のトラック輸送料金だけで、この金額がもらえる。

まるで夢のようだと思ったのです。

絶対に手に職をつけてやると意気込んで、アトリエで勤務させてもらえることになっったのですが…。

そこは私の想定をはるかに超える、非常に厳しく恐ろしく、怖い場所だったのでした。

サンプル専門のアトリエに勤める

新人が来たからといって、研修期間や教育など全くありません。

技術職の現場は何処も同じだと思うのですが、縫い方を手取り足取り教えてくれるわけがないのです。
誰もが忙しく、納期を守るために時間に追われています。

社長は30代の女性でした。

スタッフの縫う裁断を全て、社長が行い、縫い子はそれをガンガン縫うスタンスで業務が行われていました。

サンプルのアパレルメーカーは多種多様でしたが、マダム花井が主とした取引先で、高級な素材も多くあつかっていました。

その他に、数十社取引先があり、大きな相手から、バッタ品もどきの物まで幅広く縫う技術が必要です。

 

縫う仕事なら何でもやるんかというほどに、種々雑多なデザインや素材を受け付けていました。

当時は7名の縫い子がいて、ロックミシンはアトリエに一台しかなくて、順番争いも必然的に熾烈でした。
アイロン台はバキュームが1台あるのみ。

 

そのほかは、すべて家庭用アイロンがコンパネ(板)の上に生地を敷いてある作業の上で、接着芯も何もかも行い、バキュームはあまり使ってはいけないものとして、ある意味お飾りでした。

お粗末すぎる機材だが、バブルの終わりころなので、それをメーカーがたまに来て見ていても、文句も出ない緩い時代だったのです。

縫い子のスタッフは、全員がスタートから完成まで受け持ち、「丸縫い」と呼ばれるスタンスで仕事をしていました。
苦手な部分も全部を一人で縫う必要があって、失敗は許されません。

スカート

丸縫いするということは、自分が全責任を負うということです。

接着芯を貼るところから、全部の縫う作業と、仕上げ作業まで行い、裾は何と手でまつり縫いを行ってました。

ボタンホールだけ、外注で頼むので、縫い子の仕事の圧倒的な量は過労で死んじゃいそうなレベルになっていました。

問題は、そのノルマの厳しさです!

1日にスカートをコンスタントに3着縫えないと、激烈に雷を落とされる。

ジャケットなら1着 ワンピースなら2着は縫え。

デザインは全く考慮されません。

縫う

デザイン的に無理があるものが多いサンプル屋ですので、考慮がされないというのは、地獄に突き落とすのを同じ意味を持ちます。
劣悪な環境で、ノルマを達成しつつ、ボタンをつけて裾をまつり縫いをし、裏地と表地との間のループも手で縫い、それはそれは大変な量を縫わなければなりませんでした。

 

裁断したのは社長であり、そのデザインの困難さは十分理解してた上で、情け容赦のない激怒を叩くつけられるため、余計に始末が悪く感じたものでしたが、過労死の言葉もないバブルの全盛期でした。。

当時はどんなに頑張っても、縫い終わったものの仕上げ作業は簡単に縮まらず、スカート1着で約40分かかっていました。

これは訓練で短くしようとずいぶん挑んだが、後年になっても全く短くできなかったので、正しく必要な、かかってしまう時間ということだろうと思います。

 

職業として数を縫うために必要なのに、あり得ないことに裾の始末が、手縫いの針仕事だったからだと気が付いたので、後年に自分でやるときは裾まつりミシンを買いました。

私自身が縫うだけの量でも、裾まつりミシンを買ったくらいに、手縫いの裾まつりは時間がかかります。

 

あんなに多量の生産を支えるスタッフ全員が、裾まつりを手縫いをしていたなんて、いまだに信じられない気持ちになります。

まつり専用のミシンは確かに金額の高い特殊ミシンであっても、後年私が個人営業ででも買える金額であったからです。

スタッフがバンバン縫っていたアトリエだったら、すぐにでもペイできる金額でしかなく、その『ルイス』という名前の”まつり専用ミシン”があったならば爆発的に、縫える量も増えてもっと稼げただろうにと感じるし、雷を激発させるよりも有効に手段と方法を選べるのではないかと、愚痴をこぼしてました。

 

それはともかく、終電まで争うように縫いに縫い、出来上がったものをナイショで持ち帰り、自宅で全部の手縫いの仕上げ作業をして、翌朝にはもう鍵を握ってアトリエに到着している毎日です。

家に帰るのはシャワーを浴びるのと、夕食(忙しすぎて食べられないため)と昼の弁当、朝飯を搔き込むためだけでした。

行き来の電車が睡眠というレベルまで、自分の時間をなくして修行三昧の日々にドップリ浸かっていました。

 

そんな生活だが、同僚や先輩たちよりも、自分で起業するという野心が私の中にあったため、縫えるようになればなるほど希望は膨らんでいました。

このノルマの枚数を、自分で縫えて全額を自分が受け取れたら凄いじゃないかと考えるだけで、燃え上がるものが自分の中にあったからです。

 

サンプルのアトリエが忙しいわけ

当たり前だけど、サンプルはとんでもなく大変です。

大変な理由はいくらでもあるが、まず素材を縫う側からは選べないことが挙げられます。

つまり、やりたくないものを排除した仕事はできません。

 

こうして書いてるだけで笑いが込み上げてくるいろんな事件がありますが、サンプル屋に取捨選択権はほぼないと言っていいでしょう

もちろん縫えないもの、嫌いなタイプを苦手な人に縫わせた場合に、出来上がりの質がガクンと下がる為、メーカーだってバカじゃないから、振り分けはしてくれます。

しかし、サンプルは押し詰まってから動き出すことが圧倒的に多いため、振り分けするのも、余裕がある最初のうちだけで、後はもう、無理を利かすことが腕のうちになっていきます。

 

展示会の期日はそもそも最初から決まってスタートしているから、厄介です。

パリコレだって東京コレクションだって、展示会だって、会場と期日は絶対厳守です。

そこでの成功を収めるために営業と企画室が会議を重ね、デザインを決めて、今回のシーズンで打ち出すものの方向性が決まります。
デザインを誰がどれを担当するのか分担し、それぞれがゴールに向かって進軍するわけですね。

ドレス

ところがデザイナーのやる気や速度の問題ももちろんあるし、その他生地メーカーとの関係や、その他見えるもの見えないものの、様々な理由で遅れに遅れていくのが、生産の部分です。

 

展示会が目の前に迫っても職出し(サンプルを縫う人へ仕事の送り出し)出来てないものが、山のようにメーカーに残っていることも珍しくありません。

▼「おたくなら何着縫える?」と担当が電話で工場へかけては、納期が短すぎる、今は別の仕事が入ってるなどと断られるのも、これまた展示会やショーが近くになった時にありふれた光景となってきます。

 

こうなったら、無理を聞いてくれるところへ、出しちゃったもん勝ちで、受け付けられる範囲を超えていてもドサーーーーーっと送り込まれるのも覚悟しなければなりません。

 

そういうときのハンパのなさって、ちょっとどうなのレベルじゃないんですよね。
三番目の子を産んで半年しないうちに、たった独りで運営している私の所へ、パリコレの247着という、とんでもないものがとんでもない量であり得ない日数で送り込まれたのも、まさにこれが代表する仕組みなのです。

 

話が前後しますが、私の修行の最初の、若い女の子スタッフを7人も抱えているそのアトリエは、そういう意味でとても強い稼働力を持っていました。

つまり、メーカーから無理難題を押し込める余裕がこちらにある。

そうなったら我々縫い子は、食事どころかトイレに行く時間すらも惜しんで、目を吊り上げて縫うことに追われることに直結しているのだが、それはこちら側の問題でしかないというわけです。

しかし、逆を言うならば、取引先が仕事をため込んで、請け負わす先がなくて困っている状態で、そのタイトな納期しかなくても、困難な仕事を受け止められる強さがこちら側にあることは、取引関係において非常に有利に働きます。

メーカーがどれほど大きくても、対等に勝負できるほどにパワフルで、圧倒的な強みであるという事に他なりません。

ゆえに、私の勤めるアトリエは、仕事が薄い時でも優先的に回してもらえる義理を求めることができる上に、忙しい時はここぞとばかりにその返礼の仕事を、これでもかと突っ込まれるため、常に尋常じゃなく忙しかったわけです。

サンプル縫製に勤め始めて失敗が続く

私が最初に縫ったものが何だったのか、全く記憶に残っていません。

たぶん、先輩の裏地を縫わせてもらったり、社長が嫌々私の出来ないところを終わらせてくれたりしたのだろうと、今は思うしかないですが…。

「ファスナー1つ、何で縫えないのっ!」

3日もせずに、社長の雷が落ちたんは言うまでもありません。

私はそのアトリエが懇意に取引している会社から、「この子はやる子だから」とのお墨付きで入社していた経緯があったので、3日くらいは我慢してくれたのでした(;^_^A

最初に入社した会社を辞める時に、社員の人が知り合いの、もっと大きなメーカーから人が足りないとのことでパターンナー見習いとして、1か月ほどバイトをしに行って、とても気に入ってもらっていたからです。

パターンナーの正社員にするから、続けて欲しいと言われたのを蹴って、アトリエで働くことにしていた経緯があった。

「やる子」というのが「縫える子」ではないのくらいは、当然なのだが、それにしても私の入社当時の私の技術は皆無に等しく、酷いものでした。

 

付き合い上の経緯が無かったら、すぐさま首になっていたはずだと今でも恐縮してしまいます。

洋裁として縫えないのも問題なのだが、ロックという縫い代の端を切り落とすメスが付いているミシンでは、服のど真ん中にかぎ裂きの穴をあけるなど、究極的な大きなミスをしてしまうおっちょこちょいなヒューマンミスも時にやらかしてしまうので、頭の痛いスタッフでした。

ロックミシン

このようにメスが付いているため、下側に全体の余った布が回り込んでいると、服のど真ん中がメスでばっさり斬れてしまうのでした。

そうなったら、没!

メーカーに

「恐れ入りますが、生地の再発注をしていただけないでしょうか?」と謝りの電話を入れて、生地メーカーからわざわざそのミスのためだけに、取り寄せてもらわなくてはならない大変な事態になってしまいます。

生地メーカーに在庫があればまだいいのですが、生地メーカーもサンプルの段階であることだって珍しい話ではなく、生地そのものが服になる必要分だけしか存在してないことだってあるので、こういう時は社運が傾いてしまうのです。

ファッションショーで日本が奇異にみられる理由

日本人が海外でファッションショーをする時に、毎回、海外の人々が驚愕されることがあるのだと、10年くらいまでの記事で読んだことがあります。

曰く「あのデザイナーは、いったん誰なんだ?」

これはデザイナーの技量に驚いているのではなく(もちろんその場合もたくさんあるが)、生地の質感が、見たことのない開発されたものを扱っているのに、デザイナーさんが無名すぎることに、心底驚かれるのだそうです。

世界的に日本の生地メーカーが、アパレルメーカーのために献身的に協力する姿勢は、有り得ないレベルの貢献度だからということでした。

生地をサンプルから試験的に制作し、ショー用などに提供するのは、海外では超売れっ子のデザイナーの特権。
つまり、売れるとはっきりわかるから、生地も開発するけれど、売れるかどうかも分からないデザイナーのために生地開発するなんて、絶対にない。

 

ところが、日本では名の知られていもしないデザイナーの為に生地から開発製造して、デザイナーは大舞台でデザインのラインだけではなく、質感から思い通りの自分の世界観で活躍できるなんて、世界のレベルから見たらあり得ないのだと。

この凄さの、なぜそれだけの労力を生地メーカーが請け負うのか、海外からは奇異にしか見えないのだと書いてありました。

 

その話を後年に聞いた私が、その時にたくさんのミスをした事、これから書くことを思い出して、頭を抱えて転げ回って謝りたい気持ちになったのは言うまでもありません。

生地

話が逸れたので、元に戻します。

生地をダメにしてしまうのは、工場として存続の危機に直結しています。

ミスをするのは私だけではないが、私が一番多くしくじっていました。

なんだろなぁ。
私は何かやろうとするとき、失敗という失敗を全部踏襲するようなところがあって、3か月くらいは毎日怒鳴られ、一日に何度となく雷を落とされていました。

もっともインスタグラムでそのような話をさせていただいた方も、縫うことのアトリエでずいぶん怒られたということを話されていたので、生産の現場はもしかしたら同じようなところも多いのかもしれません。

ところでメーカーに電話するのは、生地がおじゃんになった時だけではありません。

どうやったら縫えるのか理解できないときも、悩んでいつまでも作れないのでは話にならないため、どこかのポイントで電話確認する必要があるからです。

アトリエの先輩も同僚も、メーカーに電話をするのを殊更に嫌う人が多かったです。

私はどうにもならんと判断したことは、どんどん電話することにしていました。いまは電話は大嫌いですが、当時は電話しか通信機器がなかったので、電話をかけないで悩む時間があるから、とっととかけて確認しちゃう方が早いわけです。

 

縫う相手に通じない型紙を書くのそのままにして、その担当さんとずっとやり取りするよりも、何が通じないのかを知ってもらうことも大切だと考えていたし、話をするのにもアパレルで型紙を書いていたのが役に立っていました。

とにかく、メーカーへ電話をする機会は、私が多かったのです。

サンプル縫製がそこそこに上達してから

それはともかく、怒られて怒られて、めげずに通っているうち、段々に仕事を覚えていくことができました。

そんな時に先輩が、「キレイに縫いたいなら縫った分をほどけ」と教えてくれてから、私は急激に上手に縫えるようになりました。
ほどくのが上達するというのは、自分の中でも新鮮な気持ちだったが、解体することで時計屋さんが腕を磨くのと同じ要素があるのかもしれません。

 

失敗して捨ててしまい、次々に新しいものをやるよりも、ほどきながら確認することで腕が上がるのだろうと感じます。
上達とともに、私の縫う速さも格段に上がって、どんどん挑める範囲が大きくなった頃のことです。

 

単に働いている同僚と違って、近い将来に独立して自分でメーカーから直接仕事を取り、工賃の全てをガッポリしたい私にとって、やれるものは何でも挑戦したかったから常に前向きに挑んでいたころのことです。

稼ぐことにギラギラしていたから、縫う技術にも細かいところまで、売れるものにしたかったのは確かなのですが…。

独立してから、その時の仕事がどれほど荒かったのか、つくづく知ることになるのですが、その当時の私は、自分の仕事が上手に出来ていると思い込んでいました。

サンプル縫製で、マダム花井のものを縫う

常に縫う仕事で溢れている中でも、一番嫌がられている素材、メーカーがありました。

主たる取引先の「マダム花井」の正バイヤススカートです。

「マダム花井」の正バイヤスのシフォンジョーゼットの8枚接ぎスカート。4枚接ぎスカート。

これは、超絶的に出来ない苦しみを味逢わせてくれます。

バイヤススカート

バイアス仕立てのスカートのイメージを、こちらのページでぜひ見てください。

腰のあたりがタイトで、その下にフレアーが広がっています。
ヒップまでフィットする形にして、ヒップ下は三角に広がる型紙で、縫い合わせも美しくドレープが流れなければならない上級者の技術が問われるデザインです。

 

ドレープ(生地のひだ、うねり)が、どちらかに傾いたりしてしまい、地の目がバイヤス地であるため、斜めに伸びる生地質も相まって、どうやっても縫い合わせることができない危機にしょっちゅう遭遇してしまうのです。

 

しかし、新人なら触らせてももらえないほどの高級な服地に、仕事であふれかえっているため、やる気だけでチャレンジできたので、時々その苦しみに無い知恵を絞っていました。

その頃のアトリエは、向上心さえあればどんなチャンスにも挑めて、実に面白く手ごたえがあったものです。

マダム花井さんのトロンとしたドレープのある生地(高級な生地であるとよりしなやかになる)の、完全なバイアス仕立てのスカートは、本当に難しく何度も泣かされていた。

やる気だけではどうにもならない。

トロンとした生地は、素材が高ければ高いほど、しなやかに美しくドレープが流れ、魅力的です。

縫う側からは、生地の流れてしまうクセは、生地のいううとおりに縫えないことには、とにもかくにも作れないデザインです。

  • ※生地は斜めに取ると、ものすごく伸びる。
  • ※左右伸び方が違う場合も多く、縫い合わせるだけで、ものすごく苦労する

生地の柄がまた美しくて、正バイヤスで裁断されたものは、本当にキレイなドレスになりますが、それだけに職人泣かせなのです。

それが貧乏くじのように残っていき、手にしている仕事が出来上がった順番に、残っている仕事の山から次の仕事を抜いていきます。

  1. 最後まで残った貧乏くじを引き当てるか、
  2. 後輩が「これが縫えるの、先輩しかいないじゃないですか!」と押し付けるか

どちらかになり、どんなに難しくても報酬は一緒で、出来なければ雷が落されるのですから、堪ったものではないのでした。

私は未熟者でしたが、時々混ぜてもらっては、作れない苦悩を共にしていました。

 

今にして思うと、あれだけ苦悩しても縫えなかった理由は、実は多分コレが問題じゃないかと思える確たる理由があります。

そのことに気が付いて、自分で裁断するようになって検証もしてみて、絶対的に間違いないと考えるようになったある日、とんでもない窮地に陥った時、わが身を救ってくれたのが検証の結果でした。

それもまた、スキルとして大事な内容になるので、記事にします。
どうそ、お楽しみに。

サンプルの失敗で呼びつけられ、独り謝りに行く

そんなわけで、そのうち私にも難しいのが回してもらえるようになったある日の事です。

私は真っ赤な地色で美しい柄の、マダム花井の正バイヤススカートを縫おうとしていました。

その時に何を思ったか

「裁断が間違ってるから、私が直す」とジョキジョキと切ってしまったのでした。

あの時、何があったのか。

ー今でも、分からないー

結果は惨憺たるものになってしまいました。

当然、社長の激怒も死にそうになるほど喰らって、これ以上ないと思えるほどに叱られ、雷がこれでもかと落雷しまくり、アトリエがこのまま大爆発するかと思うほどに怒られ

「マダム花井に、自分で謝ってこい!!!!」と、

前代未聞の、独りで謝りに行かされる失態になったのでした。

その時の私は 22歳。

原宿駅から10数分で行ける、マダム花井ビルまでの、お洒落で通な人々が行きかう道が怖かった。。。

たった一人で、しかもお洒落とは程遠い、クソ汚い作業着で、単に怒られるために行くのだから、しょんぼりレベルでは済まない。

人びと

しかも、自信満々でやったはいいけど、何をどうしたのか記憶がないんだから、どうにもならん。
言い訳も記憶があればこそである。

エントランスの立派さで膝がガクガクしてしまうのを乗り切り、社長からメモしてもらった担当者の方のお名前を、フロントに告げました。

緊張で全身汗が貼りついて、気持ちが悪かったのだが、出てきた担当者の方が、50過ぎのいかにもな経験豊富な女性だったとき

もう、自分の人生は、ここで終わったと感じた。

現実は、実際に感じた以上の理論整然としたキャリアそのものの爆弾でした。

 

いま現在ここで自分が生きているのを、全身全霊で全世界にお詫びしたくなるほど、こってりと絞りに絞られたのです。

二度と自分の方が理解してるなど、頭の片隅にも浮かばせないほどに、理詰めに次ぐ理詰めで、バカな判断をした結果がどれほどの損害なのか、

パターンや生地の理屈も知らない人間が勝手な判断をすることが、どれほどの問題なのか。

徹頭徹尾、筋の通った話で、拷問的なお叱りを、いただくことになりました。

完全に逃げ道は塞がれ、3時間にわたり生意気な自分を叩き潰されたのです。

辞めさせようとしているのかも?と感じました。

危険分子は早いうちから潰して排除すべきだと、私も今でも感じるし、失敗の責務を乗り越えられる根性を見せられないなら辞めてしまえ!という理詰めだったと思います。

でも、ここまで叱られても、自身が縫製に向いてないとは全く感じませんでした。

 

それよりも筋が通りすぎて理論整然としているその方の明快な理論に、ゾクゾクしました。

立派な会社はやっぱすげーーー。

叱り方までしっかりしてやがる。

感動しました。

ここまでこの人が本気で、私を叱っているんだなと、心底から興奮がジワジワしたのです。

平謝りはしているのだが、言い訳はしませんでした。

というか、記憶がないのだから、言い訳のしようもない。

どれほど言っても、全然私が辞めそうにならず、心も折れないのを見透かされていて、最後にはその方も苦笑し出してしまう始末。

会社

「どういう世界ランクの生地を扱っているのか、この廊下の飾ってある調度品や絵画を見なさい!」

「あなたが縫っているものが、

わが社のレベルが世界的にもどれほどなのかを、きちんと感じて帰りなさい!」

「せっかくここまで、その糸くずだらけの汚い格好で来たんだから、ゆっくり見てもいいわよ」

「表参道のここまでの道を、その着ているだけの汚らしい服で歩くのは、さぞかし恥ずかしかったんでしょ?

帰りもまた、その格好で歩いて帰るのよ?」

せせら笑われ、罵られました。

ここまで言われるといっそ快感でした。

「ちゃんと得られるものを得て、帰りの恥ずかしさを噛み締めて、しっかり受け止めて前を向いて歩きなさい!」

めちゃくちゃ辱められながらも、私が一つひとつに立ち止まっって、再び歩き出すまでじっくり時間をかけた見学を許されたのです。

フワフワする絨毯の踏み心地と、言われてもちっとも頭に入らない絵画の作者の名前を教えてくれたり、調度品の曲線の美しさと、陶器の輝きも堪能させてくださったのでした。

その時に、

こんな大きなビルの企画室と堂々と仕事が出来るようになりたいと、逆に野心に火が付いたのでした。

『絶対に、このクラスのメーカーと仕事をするようになる』

今でいうならルフィーの「海賊王になる!」みたいな気分で、

廊下の絵画や装飾を目に、ふかふかな絨毯の踏み心地を、心に焼き付けたことを覚えています。

マダム花井の会社は、その後も関連会社の縫い子を集めて、本物の花井先生をすぐ近くに感じる距離感の会議室で、花井先生から直に、講話をもらえる機会をもうけてくれたこともあり、マダム花井の縫製をする若き人々への貢献の姿勢の素晴らしさを体験させていただきました。

縫う人間を、本当の意味で育てようとする会社で、組織として素敵でした。

お名前も忘れてしまったけれど、今あの方はどう暮らしていらっしゃることでしょう。

筋の通った話で、己の足りなさを叱られるのは、惨めにはなりません。

惨めになるのは、理の通らないことを横車されるのを防げないときだけだと、心に灯がともったのでした。

幼いころから、自分の生きている事さえ否定されてきた私だったですが、この時の3時間余りの拷問的な指導は、私に今ある事を全肯定させてくれたと言えるでしょう。

私がそのことに気が付くのはずっと後になりますが、理論が整然としていることは、伝える時にものすごく大事なことなのです。

バイヤススカートを縫うために、何が必要で、どこに気を付けていくのかを、ずっと頭の中で考え続けていた結果が、独立して宮城県に移住し、家族を食べさせていたある日に、ひょんな形で試されることになろうとは、思いもしませんでした。

この時の大失敗と、忘れさせない拷問的なお叱りとが、後年の危機に直面した私を助けてくれるのです。

感謝してもしきれない恩恵を、あの時の私はすでに受け取っていたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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