スピードを劇的に上げないと食えないと覚悟せざるを得ない事態に
私が縫うスピードを飛躍的に上げない限り、この生活を保持できないと知ったのは、30歳の時です。
夫が脱サラに失敗し、家に引きこもってしまったからでした。
サラリーマンの妻として、内職程度にやれればいいやと考えていたのが、一瞬で家業にすり替わってしまいました。
子供は幼児を含め3人いて、上の子は1年生になったばかり。
実家の母親に子守のパートをさせていたお給料が、実家の生活費の全てでした。
- 自分たちのマンションローンの返済
- 2世帯分の生活費
- 縫製業を本格的に運営するために、機材も随時必要でローン購入
私の肩に課せられたのは、大きな金額でした。
そこで私は考えたんです。
製作時間を限界まで切り詰めて、いろいろな創意工夫をする必要があり、自分を鍛え直さねば、この局面は乗り切れないと。
私のような愚鈍な人間は、そこまで追い詰められないと、
時短を工夫するよりも今までもこれで出来たんだからいいじゃないという、逃げの姿勢でしか仕事をしません。
上昇志向があっても、時間を削り取ってジリジリと完成の時間を短縮していく限界に挑むのは、並大抵の苦労ではないからです。
親の支援が必要じゃなくなった時、父は末期がんでした
実家の生活への支給が停止したのは、父が肺がんの末期であると知った兄夫婦が、両親を引き取る形で一戸建てを購入した事で、私の責任はやっと終了となりました。
25歳から8年の歳月、親への給料を出産の時でさえ滞らずに支払い続けました。
サンプル縫製のための機材の購入額は1千万以上。
親に支払った額もほぼ同等でした。
そして家業となるも、夫は全くやる気を見せることもなく…。
その後、父の葬儀などでそれまでに淡く続いていた実家との関係は急速に劣悪になり、実家とは絶縁しました。
母と私は相いれないものがあった
そもそも幼いころから実家の中で私は浮いた存在であり、馴染めない部分があって、母には強く違和感があり、互いに譲れないものがありました。
母は、自営業の厳しい部分を自分で切り拓く私への、嫉妬もあったのかもしれないです。
ラーメン店、マージャン店、工場のパートなど転々として、落伍者の父への不満しかない母。
私は自営業者の妻ならば、もっとやることがあったはずだという考えがあります。
勤め人の妻なら愚痴を言ってもいいかもしれないけれども、
自営業に身を置くならば、切磋琢磨して身を焼く覚悟をしてしかるべきだと私は考えています。
- 私が夫のやる気のなさに、
- 本気で喧嘩を売って、
- 互いに殴り合いになろうとも、
- 流血騒ぎになってでも、
- 自分の方向に引きずっていく姿勢
金の切れ目は縁の切れ目
金の切れ目は縁の切れ目とはよく言ったものです。
生活の保護を兄がするとなったら、手のひらを反し、それまでのことは真っ白な白紙にされました。
逆に長男の自分がしてこなかったことを、私と夫がやってきた8年が、勝手なことをしたと責められるので、それは違うんじゃないのと対立してしまったのです。
その後の攻撃の手も緩まず、私が今までに実家の支援をしてきたことを咎める攻撃が止まないないので、ここでも心底驚きました。
あんなにいろいろな部分で生活を分け合ってきたのに、いきなり罪悪人認定です。
イッセイミヤケの工場がある宮城へ移転しようと決心
イッセイミヤケの工場があることから頻繁に宮城に行き来していたので、行先は宮城しかないと思いました。
都会暮らししか知らない私と夫が、陸奥まで移住する決心をしたほど、私は実家からの攻撃に切迫した危機に直面して、自分の安全を図るために、実家との距離を大きく取ることにしたのです。
結果的に、宮城に移住したからこそ、結婚生活も長く保てたのかもしれないです。
また宮城に行かなければ子供たちとの時間をもっと作れたのかもしれないと、少なからず後悔の気持ちもあります。
人生に悔いなしとはいいがたいのは、私が情感で生きる人間だからでしょうね。。。
コメント
タカコさん、いつも動画ありがとうございます!タカコさんが、いつも失敗から学ぶことが多いとおっしゃるので、なぜ、この人は、成功例だけを見せないのか、伯母さんの死の失敗と、ご自身の人生で、辛い思いをされていたから、なぜ失敗するのか?という意味を大切にされているのが、分かったような気がします。私も、中学生3年生の頃から、過敏性大腸症候群という、ストレスで、便秘と下痢の繰り返しで、少し不登校気味になりました。高校に進学しても、1学期しか通えなくて、精神的不調を今でも、抱えています。お薬を飲んで毎日を過ごしています。20代後半から、光線過敏になり、急に暑くなるとサングラスが必要になります。肩から息をして、疲れ果てしまいます。今の福祉の職場は、私の人生で1番長く続けられた職場です。8年目です。裁縫に出会えた職場です。私はその裁縫で型紙を作りミシンで縫っています。殆どの工程を私1人でしています。裁縫を教えてくれた先輩は、精神的不調で長期休暇です。帆布製品は、全て自分の、アイデアを形にしたものです。互いに辛い経験をして、昭和っていう時代は、辛い経験をたくましく生きた人々が毎日の生活の中に沢山いる時代だったなぁと思い、今の成功は、多くの辛い経験をたくましく生きた人々が掴んだものだと、遅咲きの自分は、思います。貴重な体験を聴かせて下さってありがとうございます!