伯母のクローゼットは空っぽだった
そしてもっと悲しいことがありました。
伯母のアパートには生活に必要なごく最小限のものと、
私たちが伯母に送った手紙や人形などが大切に保管されている以外、クローゼットには夏用の数着分の着替えしか残ってなかったのです
梅雨を前に肌寒いときもあるだろうに、カーディガンすら1着もない。
季節代わりの羽織るものさえも、存在してませんでした。
冬のものは1着すらなく、半袖の夏物が数着だけ、ポツンと残ってただけだったんです。
換気しても残った臭気があり、片付けに参加しましたが、非常に苦しめられました。
伯母と楽しく語り合いながら歩いた、
- 恵比寿の駅から線路沿いの伯母の家までの道。
- ツタの茂った細い階段をたどる小道は、私の希望でした。
- 渋谷まで歩いていきながら、雑貨屋で買い物したこと。
その全部が失われてしまったこと。
そして伯母が最期に望んだ、小さな夢一つ叶えさせてあげることもできず、
約束も果たせずに、顔も出しもせず、
亡くなっても、なお気が付かなかったこと。
自分が情けなくて、胸が張り裂けそうでした。
でもその一方で、
必死に頑張っているまっ最中のガキに、
人生を多く歩んでいる大人が、こんな仕打ちをしていいのかよ?
と叫び出したい怒りでいっぱいで、どうしたらいいのかもわかりませんでした。
夕日に向かってバカヤローと叫べるものなら、そうしていたでしょう。
(誰か教えてください。私はそういう叫ぶ行為をいまだにしたことがないのですが、効果はあるんでしょうか?)
もし戻れても、私には同じ結果しかできない
あの伯母の電話を受けた瞬間に、もしもタイムスリップで戻ったとして、私に何かできる余地はなかったです。
自分自身が、既に生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められた状況で、
もがき足掻き、スキルを奪い取ってでも身に付けて独立することだけが、私の希望でした。
独立すると決めていたから、どんな劣悪な状況でも、マダム花井で大目玉を食らおうとも、私の仕事をする意欲は変わらなかったのです。
でも伯母の突然の孤独死は、非常に後味が悪く、私の心に消えない罪悪感と同じ重さの怒りを残しました。
どうして、「死んじゃうよ?」と言って、急死することなんてできるのでしょう?
そして自分の死を予期していたかのような、生活の雑多なものが全てなくなった住まい。
空っぽのクローゼット。
くも膜下出血による発作で吐いたもので窒息に至ったのが死因だったので、事故死扱いように記憶していますが、衝撃が大きすぎてほとんど覚えていません。
私が、みなさんに言いたいこと。
ずっと繰り返し言い続けていることですが、
- どうか早く確実に縫う方法を知って、
- 製作時間を短縮し、
- その余った時間でご自身へのご自愛と、
- ご家族や周りの方々との時間を少しでも多く作り、
- 限りある人生を有意義に使って欲しいと願ってやみません。
縫う方法の基礎を覚えてから縫う速さと、
独学でああでもない、こうでもないと繰り返しこねくり回している時間とでは雲泥の差があります。
天と地ほどの違いがあります。
そして、縫うスピードと完成度を良くするためのノウハウは、
ものすごい数を縫って、修羅場をかいくぐってもなかなか身に付きません。
洋裁教室に通っても、教えてもらえないでしょう。
なぜなら、洋裁教室の先生の多くは、
納期を限界まで詰め込まれる極限に近い、地獄の生活を経験した方は少ないと思われるからです。
なぜ縫える人が少ないのか=服飾産業が衰退したから
服飾産業は、バブルがはじけてしまってからずっと斜陽です。
当然、日本国内の縫製工場の多くが、倒産しました。
その結果として、縫える職人さんも仕事をなくしたし、後の世代が育っていません。
日本は物を作る時代から、出来上がった安いものを買う時代に変化し、縫う技術を知っている人は大変少ないです。
私がアトリエで毎日時間に追われて、生命の危機さえ感じるほど追われ続けても、
そんなものは、要は人の看板のお勤めの気楽さです。
独立するために身につけると鼻息は荒かったですが、
本当に家族を食わせる立場となって、メーカーと直接取引をするようになったら、覚悟が変わりました。
それでも、とにかく完成させればOKというスタンスでした。
コメント
タカコさん、いつも動画ありがとうございます!タカコさんが、いつも失敗から学ぶことが多いとおっしゃるので、なぜ、この人は、成功例だけを見せないのか、伯母さんの死の失敗と、ご自身の人生で、辛い思いをされていたから、なぜ失敗するのか?という意味を大切にされているのが、分かったような気がします。私も、中学生3年生の頃から、過敏性大腸症候群という、ストレスで、便秘と下痢の繰り返しで、少し不登校気味になりました。高校に進学しても、1学期しか通えなくて、精神的不調を今でも、抱えています。お薬を飲んで毎日を過ごしています。20代後半から、光線過敏になり、急に暑くなるとサングラスが必要になります。肩から息をして、疲れ果てしまいます。今の福祉の職場は、私の人生で1番長く続けられた職場です。8年目です。裁縫に出会えた職場です。私はその裁縫で型紙を作りミシンで縫っています。殆どの工程を私1人でしています。裁縫を教えてくれた先輩は、精神的不調で長期休暇です。帆布製品は、全て自分の、アイデアを形にしたものです。互いに辛い経験をして、昭和っていう時代は、辛い経験をたくましく生きた人々が毎日の生活の中に沢山いる時代だったなぁと思い、今の成功は、多くの辛い経験をたくましく生きた人々が掴んだものだと、遅咲きの自分は、思います。貴重な体験を聴かせて下さってありがとうございます!