伯母と交わした最期の会話
思い返してもつい数日前のように思い出される光景がありました。
4月のある日、たまたま珍しく、夜の7時くらいに家にいた時に電話が鳴りました。
ちょうど台所に行こうと通り過ぎる時に電話が鳴ったものだから、
普段は決して取らない受話器を何気に反射的に取ったら、伯母からの電話だったのです。
ギラギラハートの、子守歌~~~♪とチェッカーズの唄がお互いに背景から響いて、
「同じ番組を見ているんだね」と笑いあいました。
「チェッカーズの衣装が可愛いね」と伯母が言うんですな。
忙しく過ごしていると、身内のことはついつい後回しになってしまいます。
伯母と話すのは、また服のことを催促されそうで、この流れはちょっと嫌だなと瞬間に感じました。
その息を吸ったのが吐き出されるようなタイミングで
「早く私の服を縫ってくれないと死んじゃうよ?」と言われたんです。
(嫌だな、服を早く縫えと…)
「死んじゃうよ?」
ほとんど被るような性急さで言われて、私は、心底ビックリしました。
伯母は怒らせたら怖い部分はありましたが、普段は朗らかな性格で、冗談でもそんなことを口にする人ではありません。
「お母さんに代わって頂戴」
いま言ったことなんて、「明日は雨が降るわよ」というような気軽さで、
伯母は話を急に終わらせてしまいました。
私も追及されたくなかったので、近いうちに必ず行くからと約束して母に電話を替わりました。
超LLの服を縫うゆとりがない
もちろんその後にすぐに伯母の様子を見に行くこともできたのですが、
私はどうしてもプレッシャーがあると行きたくないと駄々をこねるガキな部分があって、時間をやりくりして伯母のところに駆けつけることをしませんでした。
というよりも、これ以上服を縫うのは限界というほど、1日のノルマがスカートを最低でも3着という無茶苦茶な数字だったのです。
現実問題として、通勤以外の時間を割くことがほどできない状況に陥ってて、
”オシャレな服を縫って欲しい超LLサイズ”の伯母に合わせる顔もなかったのです。
その頃の自分としては、超LLサイズの服って、どうやって縫ったらいいのかもわからなかったです。
- 自分はきっと流れに負けて、引き受けてしまうだろう。
- そうなったら次はいつできるのかの矢の催促というのも、
- 服を縫うことで日夜苦しんでいる状況で、
- これ以上、同じベクトルの責め苦はやめて欲しかったのです。
持病がない伯母が突然死するなんて想像もしてなかった
伯母は太っていたので病気というほどではなくても、循環器系など問題はあったかもしれません。
でも特に何かで寝込むなど、身体的に不具合があるという話もなかったので、親戚中が大きな悲しみに突き落とされました。
いきなり急死したという知らせにも仰天しましたが、
伯母が「早く服を縫ってくれなきゃ死んじゃうよ?」と言った1か月も経たないうちに、
本当に急死ししてしまう事実を、どう受け取ったらいいのか、全く訳が分かりませんでした。
伯母の葬儀で…
伯母の葬儀は親族のみでした。
葬儀会場ではいくつもの葬儀が同時進行で行われており、たまたま私だけが会場に残っていた時間がありました。
私の目が涙で錯覚しただけだと思いますが、伯母の遺影が大きく揺れて、鬼気に満ちた表情で顔面まで迫ってくるように感じ、気が遠くなったのを覚えています。
私は伯母の死に激しく怒りを感じました。あまりにも理不尽ではないかと。
私は文化服装学院の時にも、その後に転身してからも、非常にタイトスケジュールであることを理解してくれている数少ない大人の人が、伯母だと信じていました。
バイトで夜遅くまで働き、クタクタになって深夜に帰宅して、すきっ腹を満たすため料理をしようとしている私を正座させ、
「深夜帰宅するとは何ごとだ」と酔っぱらった勢いで、無防備な私の顔面を殴りつける父。
そんな私のバイトの給料から生活費を出させながら、見て見ぬふりをする母。
そんな私の苦しみを理解している人と信じていた伯母が、「死んじゃうよ?」と脅したうえに、
本当に死んじゃうなんてことを、大人が若造相手にしていいのかよ?と激しく怒りを感じずにいられませんでした。
故人に対し、激しく怒りを感じる自責が私を粉々に引き裂くように感じました。
コメント
タカコさん、いつも動画ありがとうございます!タカコさんが、いつも失敗から学ぶことが多いとおっしゃるので、なぜ、この人は、成功例だけを見せないのか、伯母さんの死の失敗と、ご自身の人生で、辛い思いをされていたから、なぜ失敗するのか?という意味を大切にされているのが、分かったような気がします。私も、中学生3年生の頃から、過敏性大腸症候群という、ストレスで、便秘と下痢の繰り返しで、少し不登校気味になりました。高校に進学しても、1学期しか通えなくて、精神的不調を今でも、抱えています。お薬を飲んで毎日を過ごしています。20代後半から、光線過敏になり、急に暑くなるとサングラスが必要になります。肩から息をして、疲れ果てしまいます。今の福祉の職場は、私の人生で1番長く続けられた職場です。8年目です。裁縫に出会えた職場です。私はその裁縫で型紙を作りミシンで縫っています。殆どの工程を私1人でしています。裁縫を教えてくれた先輩は、精神的不調で長期休暇です。帆布製品は、全て自分の、アイデアを形にしたものです。互いに辛い経験をして、昭和っていう時代は、辛い経験をたくましく生きた人々が毎日の生活の中に沢山いる時代だったなぁと思い、今の成功は、多くの辛い経験をたくましく生きた人々が掴んだものだと、遅咲きの自分は、思います。貴重な体験を聴かせて下さってありがとうございます!